2013年3月10日日曜日

『Letters from Iwo Jima:硫黄島からの手紙』(2006):ステレオタイプを超えて

【2007-08-17のログを転載】



2部作の2つ目、「Letters from Iwo Jima:硫黄島からの手紙」は、日本側の硫黄島戦に着目します。しかし、ただ単に日本側の視点に立って描かれた硫黄島戦ではないように思います。この映画には、やはりアメリカ人監督クリント・イーストウッドの視線があるというのが、見ていると感じます。この映画は、日本人俳優を採用し、全編が日本語で演じられ、「日本映画」的でありながらも、日本人にではなくアメリカ人に向けられた映画であると。

というのも、日本人が太平洋戦争を語る時、中国人や韓国人、そして東南アジア諸国の人々が現れないように、そもそもアメリカの歴史においても、「顔」のある日本人は現れないという事実があります。

戦時中では、日本人、特に日本兵は、アメリカ人にとって「敵」であり、純粋な「悪」でしかありませんでしたし、歴史の授業においても、それは「アメリカ史」であるために語られるのは「アメリカがなにをしたか」でした。よって、アメリカでは日本のことを知る機会が、ほとんどありません。ですから、敵対したアメリカと日本の太平洋戦争を語る上で、アメリカ人の中には、感情を持った「人」としての日本人というイメージはありません。こうした感覚上の「敵=相手」の不在は、1作目の「父親たちの星条旗」の語り方にも現れています。

そうした「アメリカの歴史」しか知らないアメリカ人に向けて、「硫黄島からの手紙」は作られていると私には思えます。

この映画で、監督のクリント・イーストウッドは、まずとことん日本人・日本兵のステレオタイプを崩そうと努力しているように思えます。
渡辺謙は、渡米経験を持ち、理性的な軍人、栗林陸軍中将を演じ、伊原剛志は、ロサンゼルスオリンピックで馬術競技において金メダルを受賞した、バロン西こと西竹一陸軍大佐を演じています。この二人は、実在し、部下にも慕われた人間味に溢れ、論理的に振る舞う人たちであったようです。そして、二宮和也が演じる架空の兵士、西郷は、感傷的で戦うこと、死ぬことを避け続ける優男として登場します。
彼らを中心に映画を撮ることで、凶暴かつ狡猾で、狂信的な、まともな理性を持たない黄色人種集団として描かれていた日本人兵士のステレオタイプに対抗しようとしているように感じます。

また、この映画で根本的でありながら特に興味深いのは、日本人を起用し、全編日本語で撮っていることです。これは、ハリウッド映画では、大変珍しいことだと思います。アメリカ人は基本的に字幕を嫌がり、アメリカで公開する映画なら英語であるのが当たり前だろう、といった自民族中心主義的な感覚が強くあります。
よって、興行収入などを考えれば英語で話させるのが当たり前なわけですが、クリント・イーストウッド監督は日本語を話させることにこだわりを見せています。この点もアメリカ人視聴者が他の国の視点に立って歴史を振り返って欲しいという意向が見えてきます。

こうした手法で、アメリカ人にとって非人間的な怪物であった「日本兵」という存在を人として描き、「アメリカ人と変わらないじゃないか」と思わせ、戦争の無情さ、無意味さを感じさせているように思います。

ただ、この映画で気になるのは、前述した登場人物3人(栗林、バロン西、西郷)が、いささかアメリカ人的であり過ぎるように感じる点です。アメリカ在住経験がある栗林やバロン西は、そうであったのかも知れませんが、それでもアメリカ人の理想的な男性像そのものの振る舞いようですし、西郷の言動はアメリカ的と言えなければ、現代っ子的なものです。

当時の日本人からすれば彼ら3人は、異端児そのものでしょう。そうした彼らを中心に描くことで本当に「日本(人)」が語られているのか、少々疑問にも感じます。これでは、理解できるのはアメリカ人のように振る舞う日本人のみで一般的な日本人は理解不能だ、といった感じです。

異端児ではない一般兵だった日本人が今もまだ生きているのですから、話を聴くことも可能だったでしょう。そうした調査やインタヴィーをしていれば、1作目のように過去から現在へと時間軸を使った映画も可能であったのではないでしょうか。(考え過ぎかも知れませんが、この点にはオリエンタリズムを感じてしまいます。)こうした限界を超えるには、クリント・イーストウッド監督が願っていたように、この映画は日本人監督によって撮られるべきものだったのかもしれませんが、またそれによって失われることもしかり。

ですから、ここまでが、この映画の役目だったと思うべきなのかも知れません。監督が目的とした戦争の無惨さを伝えること、それは達成されているわけですから。2部作を通して感じるのは、戦争ではアメリカ人と日本人とが交じる瞬間に生みだされたのは「死」とトラウマだけだったという虚しさです。

この映画が生みだされたことで、また新しい切り口で戦争体験を伝える映画が生まれるかも知れません。まだ語るべき事は残っているのですから。。。


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