2013年3月10日日曜日

『Flags of Our Fathers:父親たちの星条旗』(2006):過去との「和解」

【2007-08-08のログを転載】


遅ればせながらも、先日DVDで「Flags of Our Fathers:父親たちの星条旗」と「Letters from Iwo Jima:硫黄島からの手紙」を観ました。クリント・イーストウッド監督スティーブン・スピルバーグ総指揮による硫黄島を巡る2部作です。

まずは「Flags of Our Fathers:父親たちの星条旗」について。こちらでは、アメリカで表だって語られなかった硫黄島戦の「アメリカ兵士の記憶」が語られています。

画像にも使っている硫黄島の山に星条旗を立てようとする兵士達の姿を捉えた写真。「Flags of Our Fathers:父親たちの星条旗」は、この歴史的な一枚の写真に写る兵士達の中で生存した3人を中心とした物語です。この写真が公的な歴史のなかで持った/持たされた意味と実際に撮された兵士達の記憶との大きな『溝』が大きなテーマになっています。

物語は、戦争によってPTSD(心的外傷後ストレス障害)をわずらう元兵士たちの体験を通すように現在から過去へ、そして過去から現在へフラッシュバックしながら進みます。そうすることで、戦争に関する公のストーリーとは相容れないず、語られてこなかった兵士たち、そしてその家族の生々しい「記憶」が、公的な「歴史」と交わっていきます。

硫黄島の写真が、アメリカ本土の人々にとって特別な一枚となったのは、この写真がアメリカの勝利によって、先の見えないこの太平洋戦争が終結するという兆し見せ、希望を与えたことにあります。実際の所、この写真が撮られた後も硫黄島での激戦は続くのですが、本土の人々には初めて日本の領土をアメリカが制圧したと写り、終戦間近を思わせたのです。

本土で起こったこの写真への劇的な反応に目を付けたのは、アメリカ政府でした。政府は、写真に写る兵士を帰還させ、長期化する戦争に辟易している国民に戦時国債をもっと買わせるキャンペーンをさせることを計画します。国民に希望を与えた兵士達を「英雄」に仕立て上げることで、国民意識を向上させ、戦争のための金をもっと集めようとしたのです。

しかし英雄とされた兵士達にとって、このキャンペーンは喜べるものではありませんでした。彼らは別に武勲をあげたから「英雄」とされたのではなく、たまたまやっかい仕事で任された作業をしたに過ぎませんでした。加えて、そもそも彼らが揚げた旗は、2度目に揚げられたものでした。上官が個人的に所有したいという意向で、最初の旗は下ろされ、代わりの旗を揚げる姿をカメラマンは撮ったのです。なので、彼らには「英雄」的なことをした実感はないのです。逆に、兵士の1人は、激戦地に残した仲間を思って苦しみ、酒に走ってしまうのです。

こうして噛み合わない政府の思惑と兵士達の感情とが、「歴史」と「記憶」が、映画の中で交差しながら鑑賞者にその矛盾を訴えかけます。そして、この映画は単純な戦争の記憶だけにフォーカスをせず、その時代に存在した政府の欺瞞や人種差別、そして戦後の退役軍人蔑視の流れをも含めて重層的にその時代を描き、深みのある映画に仕上げています。

なので、この映画はアメリカ人にとって、無視したり見なかったことにしてきた生々しい記憶・歴史との「和解(reconcilation)」の機会を与えるものになっていると言えます。

日本人がこれを見れば、日本とのあまりの質量の違いを思い知ります。アメリカには、感傷に浸るだけの余裕があったのだと。……そして、見終えてから暫くしてふと思うのです。「あれ?日本人出てたっけ?」と。

そう、「父親たちの星条旗」では、舞台が硫黄島であるにも関わらず、ほとんど日本人が現れません。アメリカ軍兵士たちは、ひたすら見えない「敵」と戦うのです。たまに日本兵が姿を現してもすぐに殺されてしまいます。太平洋戦争は、日本とアメリカの戦争ではありますが、この映画では「アメリカ(側)の戦争」という側面が強調され、日本人は舞台の影にやられてしまっています。

なので、日本人がこの映画を見る場合、何か釈然としないものが残るかも知れません。でも、「硫黄島からの手紙」を見るのなら、繋がりあっているこの映画も見て欲しいところです。これがアメリカにとっての「Iwo Jima/硫黄島」なのだ、と思いながら…。


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